なぜ論文のインパクトファクターは高い方が良いのか

日付;2022/02/13(日)

研究の成果を世の中に出す最も有効な手段は、その成果を論文として出版することである。学会発表なども公表のうちに入るかもしれないが、学会発表での結果は未だ結論に達していない場合もあり、レビューがあったとしてもそれはとても甘い(だろう)ので、基礎研究や学術研究で真に成果と呼べるものは結局のところ論文誌での発表だと言える。応用の分野では論文誌での成果の発表に加えて、特許なども具体的な収入などにつながる成果だろうと思う。

その論文誌のメトリックスの1つにインパクトファクター(Impact factor; IF)がある。値の詳しい説明はここではしないことにするが、ここでは自分の研究経験からこのIFに対する考えについて記すことにする。


高いIFが意味すること

研究の成果を論文誌に投稿するとき、どの論文誌に投稿するのか一番最初に決める必要がある。そのとき、たとえダメ元だったとしても、その成果に見合う程度で、かつ可能な限りIFの高いジャーナルから選んで、順次下げていくというストラテジーを採る。それほどに研究にとってIFの高いジャーナルは価値がある。なぜIFが高い論文はそんなにも価値があるのか考えてみた。以下はショボいジャーナルにはない点であると思う。

ここでは、例えばIFが2とか4とかのニッチな専門誌や学会誌レベルの論文を、Nature、Cell、Scienceのような高名なジャーナルと比較して「ショボいジャーナル」と称させてもらう。申し訳ないが、これはある意味では正しいと思うので。

データの信頼性

まず、高いIFの論文は、その審査がとても厳しい。自分は今まで投稿したジャーナルの中で最もインパクトファクターの高い論文誌はNature Communicationsだが、このレベルにも関わらず他のジャーナルにないまるで無駄とも言える厳しさを感じた。ちなみにアメリカでの他の研究室を見ていると、このレベルのジャーナルはどうも普通のように見える。

棒グラフには全データ点をプロットする必要がある。こんなことはIFがの低いジャーナルには求められていないし、そんなことをやったところで、読んでいる者は全く気にしないと思う。しかし、この利点は、統計をちゃんと勉強した者ならばその結果や結果で使用されている統計が怪しいのかどうかなのか、なんとなく判断できてしまうことだろう。なので、レビューする側も、その結果が怪しければそれを指摘できる可能性がある。これらのグラフを正しく作成する能力も必要と言える。最近ではエクセルやGraph Pad Prismしか使えない、とかでは力不足かもしれない。

それに、自分が投稿したときは、Supplemental Dataとして、全データをエクセルファイルで提出させられた。これもIFの低いジャーナルには求められていない。ウェスタンブロットの結果が怪しければ、これによって実際のブロットをチェックすれば良いことになる。それにこれらは公開されるので、読者側も必要であれば検証することができる。

また、自分の場合はp値を正確に書くようにとの要求もジャーナル側から来た。p<0.05を使わず、p=0.005765と書け、ということである。はっきり言って、p値を細かく気にする生物学者は世界中探してもほとんどいないし、その値を正しく理解している者だって統計学者しかいないだろう。しかし、おそらくこんな要求が来てしまうのは、p<0.05と書いて統計を誤魔化す輩が実際にいるからだろうと思う。

最近ではRのコードも提出させられるようだ。これはCellなどの論文がやっていた。大規模なデータセットの場合はSRAなどにアップロードしなければならないので、不正を働いたらバレる可能性が高い。

高いIFのジャーナルは、このようなデータの検証をしっかりするためのシステムを、見かけだけでも採用しているので、低いジャーナルに比べて、成果の信頼性は高くなっている

研究成果の新規性・重要性・有意性

ショボいジャーナルだとレビューアーは基本的に2人であり(たまに3人だったりする)、レビューする側も、「この質問はこのジャーナルにとってみれば厳しすぎるかなぁ」とかで、主観的ではあるが、ジャーナルのレベルに合わせて多少手加減をすることがあると思う。しかし、ハイインパクトなジャーナルにおいてレビューアーは基本的に3人以上であり、その全員が一切手加減しない。レビューアー側も「この質問は少しクレイジーだが、Natureなんだからやって当然だな。」とかの無茶な要求をしてくる。本当に半端ではない。なので審査や改定時の要求がものすごく厳しい。要求に答えるだけであっさりと一年くらい経つ。この点において、自分が投稿していNature Communicationsなんてまだマシな方なのかもしれない。最近では、レビューアーを名前と所属を公開するというようなジャーナルもあり、その場合はレビューアーも本当にしっかりと審査する。これはインパクトの高い研究を選ぶだけではなく、ジャーナルの質を高いものにするためにも重要なのだろう。

しかもレビューアーとして選ばれるのは、自身もその分野での第一人者だったりするので、基本的にその分野の状況を良く知っているはずで、新しくない場合は、これは特に新規じゃないとか、はっきりと言われる。このような厳しい審査により新規性・重要性・有意性が保証されるのだと思う。ときどき、単に投稿してきた研究者やその研究を酷評し、挙げ句に暴言ともとれるコメントを送ってきたりする場合があるらしいが、もしそれをクリアしたとしたらその研究やその研究者は本当に優秀なわけなので、結局その審査に通るということはかなり有意な研究なんだろうと思う。ちなみに、そういうことのバックアップとしての複数のレビューアーやエディターなんだとも思う。

しかしながら、クレイジーな要求をしてくるレビューアーはなんとかしてほしい。迷惑である。

なぜ高いIFの論文が必要なのか

結局のところIFの高さがすべてである。

世の中には、研究の重要性はIFでは測れない、とか、IFなんかで論文誌の価値を決めることができない、だとか、びっくりするようなキレイ事を言う連中がいる。おそらくそれは半分は正しくないと思う。

極端な話ではあるが、似たような研究成果だが、自分はショボいジャーナル、相手はNature、Cell、Scienceなどの高名なジャーナルに載っているとする。その場合、

  • リファレンス数の数に制限のある原稿にどちらの論文を引用するだろうか。
  • 競争的研究資金の審査にどちらが有利だろうか。
  • 自分のプロモーション(昇進や転職など)ではどちらが有利だろうか。

当然、高名なジャーナルに決まっている。科学上でも社会貢献上でも、ショボいジャーナルが高名なジャーナルに勝てることはないので、自分の研究自体やキャリアの発展にとって必須とも言える。だから高いIFのジャーナルが結果的に必要である

分野が違う研究を一対一で評価できないが….

研究の価値はIFでは測れないとのきれい事を主張する者の言い分はおそらくこれである。正直、これも半分は正しくて、もう半分は鵜呑みにすることができないのではないかと思う。IFはその論文誌が2年間に掲載した論文の数に対する引用された論文の数の比である。そして、この値はその論文誌が年や月に出版する論文の数や、読者の数が違えば大きく変わってしまう。つまり、加速器を使って研究していどこかの天才物理学者の集団、化学物質を合成している集団、自分のような一般以下の基礎医学生物学者が所属する集団では、その研究者の母数や論文の出版頻度が大きく違ってくる。したがって、学会誌レベルのIFを単純に比較することはできない。個人的には、IFでは測れない、というのはこういう事を示していると思う。

しかし、IFが高いジャーナルで、特にNatureやScienceなどのみんなどこかで聞いたことがあるようなジャーナルは、感心さえ持てばその分野を知らない人、さらには、研究者以外の人も読むことが出来ることである。日本は英語圏ではないので、こんなことは稀だろうが、アメリカではどうやら違いそうである。自分の論文を読んで、ある患者がその責任著者にその新薬は使えるのかどうなのかを聞いてきた。IFが高いジャーナルで、それが商用ともなると、おそらく一般の人も場合に依っては着目することになる。これがIFが高い、すなわち社会的なインパクトが高いということなのであろうと思う。おそらくこれはショボいジャーナルではほとんどないだろう。しかし、基礎研究でこれを求めすぎるのはどうなのかと思うが。

ショボいジャーナルは何に必要なのか。

それでは、ショボいジャーナルは全部ゴミかと言えば、それは違う。研究というものは、ある結果の上に次の結果が成り立っている。最初の研究結果を専門誌などで出版することで、それまでの結果を確定させることができ、それを基礎として次の研究に発展することができる。というか、そうしなければいつまで経っても成果がでず、発展もできない。誰にもアピールできない。コンスタントに成果が必要ということは、こういうことを意味しているのではないかと思う。その研究結果は特段インパクトの高いものではないが、その結果の有意性を確保するためにも必要である。だから、博士課程の卒業の条件が学部で指定されたジャーナルに第一著者で出し、その他にも共著論文を出す、とかが設定されている。これはつまり「自分はある研究を一定期間内に成果にでき、その研究を続ける能力がありますよ。」ということを意味している。

さらに、ニッチ専門誌などは実際の実験計画にも参考になることが多い。これは高名なジャーナルでも同じことであるが、ショボいジャーナルはより実際の実験に近いデータがそのまま載っているように思う。なので、例えば「このタンパク質Xを細胞Aに入れたとき、何時間後に転写因子Yの活性があがってくるか?」とか「抗がん剤Qの細胞Aの細胞生存率に対するEC50はどのくらいか?」とか、ある1つの実験の結果が推測できたりする。ここがニッチな専門誌の役割であり、高名なジャーナルと同じように引用できたりする理由である思う。研究の重要性はIFでは測れない、とか、IFなんかで論文誌の価値を決めることはできない、ということに真意はここにあると思う。しかしながら、高名なジャーナルと混同できない点でもある。

重要なのが、高名だろうがショボかろうが、投稿する論文誌は出来る限り正しく選ぶ必要があると思う、例えば、結果がそこまで新規ではないが、非常に有用なデータである場合である。正しい論文誌に投稿しなければ、そのデータが有意なのかどうなんかを判断されることがないままリジェクトされてしまう可能性もある。こういう意味では、昨今のオープンアクセスジャーナルは要注意なのではないかと思う。あの手のジャーナルは無駄に総合誌だったりする。


まとめ1

高いIFの論文は、ショボいジャーナル(IFが2とか4の学会誌や専門誌)に比べて審査が非常に厳しく、そのために研究成果の新規性や有意性が保証されている。さらに、自分の研究成果のインパクトを高め、更に発展させるために有効かつ必須である。一方、ショボいジャーナルはより細かい実験に直結するようなデータが載っており、実験計画や得られた結果を検討するために有用である。このため、論文を投稿するときは、一般的にその論文誌が自分の分野や成果をちゃんと評価してくれる論文誌を選ぶ必要がある。そうしないと折角の良いデータなのにちょっと残念なかことになるかもしれない。


まとめ2

結局のところIFの高さがすべてである。