アメリカにポスドクとして留学することを決めた理由

日付;2022/02/03(木)

アメリカでのポスドクのキャリアは2022年3月末で終了する。ここで、アメリカに行こうと思った理由を記しておこうと思う。もう5年以上も前になってしまうが、今では良い教訓である。


理由

研究を続けていく上で、海外経験は自分の感情的にもキャリア的にも絶対に必要になると思っていた。しかし、このご時世、最新の技術だって日本に居ながらにして利用することができるし、論文だって、所属する施設が契約している範囲ではあるが充分に調べることができる。なので、今後必要になると考える一方で、海外留学なんかしなくてもいいかなぁとも思っていた。しかし、アメリカに来る直前の仕事が、今考えてみてもとても酷く、これが明らかにアメリカにポスドクとして留学する後押しをしたと思う。

前所属(2016年4月から2017年9月)が潰れる寸前だった

この期間中にある某がん専門病院の当時の某診療部というところに所属し、そこで家族性乳がんの原因遺伝子について研究をしていたのだが、そこがとにかく酷いところだった。はっきり言って、こんなところを選んでしまった自分が悪いように思う。ここは素直に反省すべき点として学んだ。その診療部の人間性は全く問題なかった。今でもそのときの同僚と連絡しているし、友達だと思っている。しかし、その診療部の活動のマネージメント・研究のスタイル・研究の展開が悪かったように思う。アメリカでの現所属にも少なかれ当てはまることだが、どうも自分は、研究成果が残せないような状況をその仕事の引き際のサインとみなすらしい。

参考までに何が悪かったか書いておく。まず、病院内の部署であることから臨床検体を沢山持っているが、特にそれを研究に積極的に利用することはしていないように思えた。その理由はどうも「倫理審査(IRBやSRB)を通さなければならず、患者にも連絡する必要があるから」という感じに思えた(こういうことはそのときの部長に直接聴いたわけではない)。これを面倒とか思っている時点で、臨床研究なんかやる資格なんかないし、研究室を持っていると言う資格もない。ここに行った理由の一つに、臨床検体を使った研究ができるからということがあった。しかし、これを有効に使っていないのはこの研究室での活動について再考するには十分な理由だった。

また、研究のスタイルやその展開も良くなかったと思う。その診療部の部長は、過去に報告のない事象については研究しないという研究スタイルを採っているように見えた。これは医者で研究のマネごとをしている人間に非常に多いと思う。例に漏れず、その部長もそのタイプの人間であったように思う。新しいことに着目するのはこの上ないリスクであるとみなすのだろう。そういう状況なので、申請した科研費の内容がなかり酷かった。もう提出する前から、落ちるのが分かった。その先生が知っているめちゃくちゃ古いストラテジーで新規家族性乳がん遺伝子を探索する、というテーマだった。そんなもの、昨今のHigh throughput DNA sequenceで行なえば二週間で終わる研究である。そのテーマについて、その前の職場の先生に話したことがあるが、その先生も呆れていた。当然である。そんなんなので、一度「研究ってのは新しくてかつ有意なことをしなくてはならないですよ。残念ながら今の研究は、新規性ってのはないので、助成金なども通らないと思いますよ。」という旨の話をその部長にしたことがあるが、そのときの自分に対するイメージが悪かったのだろう。どうやらその部長は「今まで行ってきた研究に興味がない。」と思ったらしい。こういう研究室だった。

そして致命的だったのが、契約したときの研究テーマを推める計画や算段が無い状態なのに、その研究テーマで雇われたことであった。このときに、上述したように「これは自分が悪かった」ということを悟ったという次第である。応募や契約では、診断部でDNA-seqを使った遺伝子パネル検査について立ち上げる。もうMiseqを買っているので、あとは立ち上げるだけ、ということだったと思う。しかし、そんなことは見事に口だけで、全く出来なかった。当時、家族性乳がん遺伝子パネルを使って診断している施設ほ日本ではどんど無いか、非常に限られていた。もしかしたら今もそうかもしれない。だからこそ、これを立ち上げて基礎検討を行えばそれはとても有意義だったはずである。そして、その部長の研究スタイルは上述の通り新規性ゆえのリスクのある研究や事業には自分から手をつけないというものだったので、着手さえできなかった。そもそも、そのMiseqだって、実は遺伝子パネルを作成するために診療部が購入したものではなく、研究用の共通機器として別の部署が購入したものだった。つまり、診療部が言うそれを使った研究とは、その部署へのタダの宣伝だった可能性が高かった。

それと時をほぼ同じくして、いろんないくつかの部署から患者を回してもらえないようになってきたように見えた。特に、家族性大腸がん疑いの患者がどんどん減っていったと思う。手技もほとんど難しいものでも特殊なものでもないので、特に患者を回さなくてもその部署だけで検査できてしまっていたのだろう。問題なのはその当時の部長(つまり雇い主)の行動だった。その状況の改善のために動いているようには見えなかった。もしくは、すでに仲間はずれにされていたのかもしれない。

そして、自分が辞める直前、ラボメンバー(臨床のメンバーではなく)が常駐する居室のようなところ(自分の居室は医局であり、そこではなかった。でも、よく遊びに行っていた。)で、盗聴事件が起こった。確か、そこを去る直前だったと思う。自分はその当時すぐにその職場を辞めてしまったので、実際にその後を見聞きしたワケではなく、友人たちに聞いたのだが、ある者が異動になり、おおよそその一年後くらいに、その部長が外部へ移動になり研究室は潰れてしまう(その某診療部は今も残っていると思うが、調子のほどはわからない。研究室は潰れていると思う。たぶん。)。結果として、自分は被害を被る前に逃げることができたとも考えることができる。

ここはこれまでのキャリアの中で仕事内容(上述のように人間関係としては良かった。全員、良い人だった。)としては残念ながら最悪の所属だった。これを見事に察知して、いち早く退職したのが自分であったと思う。当時は既にその研究室でのたった1年間の成果を論文で出版していたので、辞めることに全くの躊躇がなかった。というか、早く日本でやり残した研究にキリをつけて、次のキャリアに行くことだけを考えていた。そういう時期だった。

給与が低すぎた

これはもはやおかしな理由などない。某診療部の給与が低すぎた。これもここを選んだ自分が悪い。こんなに安い給与だったら、内定していたとしても直ぐに辞退しなくてはならない。しかしながら、その当時はhigh throughput DNA/RNA sequenceの解析スキルがどうしても欲しかったので、就職してしまった…. 上述の通り、提示されている研究ができなかったので、それは100%達成できなかったことになる。しかし、時間はたくさんあったので、よく勉強することができたのは不幸中の幸いだった。

当時の時点の目標をクリアしていた

2011年9月から2016年3月まで某研究所でがんの放射線抵抗性の獲得に関する研究を行っていた。ここに所属した理由は、博士課程から続けてきた研究をどうしても形にしたかったからということとと、分野が100%専門だったことだった。しかし、2016年になり所属していた研究プログラムが吸収合併されてしまった。実際、そこに居残ることはできたと思うのだが、もし残ってしまった場合は、吸収先の研究室であることからかなりアウェイな雰囲気かつ非常に不安定な雇用状態で研究を続けることになっていたと思う。また、その前の年にテニュアトラックに応募していたのだが、年齢が「若く」(といっても2022年現在では適齢期の33歳だった)、業績が少ないから(なんと、2022年現在では「若く」、多少業績が「少ない」ほうが適しているような雰囲気も感じることがある。5年前と判断基準がほぼ逆である。日本の行政のこのブレと脆弱性は何とかしてほしいと思う。)という理由で落とされてしまっていた。これは、その研究所にとって自分は必要なかったということだろう。それに、自分の研究能力としても、研究内容としても、何かいま一つ物足りなさを感じており、これ以上似たようなデータを出したとして、極端に言えば意味なんか無いとも思っていた。そういうこともあって、上述の某診療部に色々な意味で勉強しにいくことを決めた。その当時は、その部署はそんなに酷いとは思っていなかったし、臨床研究やシークエンサーは今後のキャリアにも必要だと思っていた。実際、両方とも非常に役に立っている。

しかしながら、その某研究所での研究はいまだ中途半端だったので、その某診療部に居ながらにして、その某研究所の研究を続けさせてもらい、無事に論文として出版することができた。それに加えて、某診療部での研究もほぼ同時に論文になっていた上述のように某診療部自体の存続についても非常に怪しいことになってしまっていた。また、後述のように、当時は国立の研究機関やアカデミックの雇用も何か怪しいというか、ほとんど信頼できないようなことになっていた。そこで思い至ったのが、アメリカでポスドクをやることだった。

日本のアカデミックの雇用が本当に良くなかった。

上記で少し書いたが、当時の日本の国立のアカデミックは本当に信頼できなかったように覚えている。

一番嫌いだったのが、日本の国立の大学、研究機関(というか、それを統制している文科省など)は基礎研究を無駄だと思っていることである。これは今もそうである。日本の国立の研究機関は、話題性があったり、流行っている研究にしか出資したくない。そのクセにサステイナブル(sustainable)だの、イノベーションハブ(inovation hub)だのと、響きだけを重視した実態のない言葉やフレーズを使うことに全力を尽くす。現在、その時から6年後くらい経過しているが、本当にSustainableな研究成果なんか残せていないように思えるし、当然ながらinovation hubなんかにも成っていないじゃあないか。イノベーションなんてのは基礎研究から生まれるものなワケなので、それをおろそかにしているようではイノベーションはあり得ないと思う。それに、流行りの応用研究なんてのはアメリカのような先進国では5年も10年も前にその基礎が完成しており、それにニワカで飛びつくようでは二番煎じ以下である。当時は本当に基礎研究に対する理解が感じられなかったし、基礎研究を行っているいわゆる若手も虐げられていたように思う。今は表面上は改善したように見えるが、根本は変わっていないと思う。

年齢についても中途半端で何がしたいかわからなかったし、若手の基礎研究者に対する扱いがそのような状態だったので、もはや日本のアカデミックで研究する気にはなれなかった。今もその考えは変わっていない。もし家族が日本にいないならば、自分は日本には帰らない。日本は10年後には相当な弱体化を経験していることだろう。

海外経験を積むためには年齢的に最終チャンスと思っていた。

2017年には、某診療部での研究も論文として出版できており、かつ、状況(少なくともあと当時のまま居続けたら良い研究はできないと思っていた。)も良くなく、だからと言ってアカデミックに戻ってもキャリアや研究テーマで某研究所と同じような問題に巻き込まれるような気がしていた。

それに、自分の性格から言っても、英語も話すことができない、海外経験もない研究者は、なんというか、井の中の蛙状態というか、御山の大将状態というか、そういう人に見えていた。それに、今後、自分より若い連中が海外経験があって英語もある程度話せているのに、自分は何も話せない、なんていうのは本当に嫌だった。どうせ日本に居てもロクなキャリアを積めないのならば、いっそのこと海外に行って英語も業績もキャリアも磨くべきだと思った。それにもう年齢的にも明らかに最後のチャンスと思っていた。

まとめ

以上がアメリカへポスドクとして留学をすることを決めた理由である。まとめると、

  • 前所属先が研究室として破綻しており、かつ、部署としても潰れかけていることを察知した
  • それまでの研究(某研究所と某診断部の両方での研究)を論文としてまとめることができた
  • 日本の国立のアカデミックの研究や雇用への取り組みを信頼できなくなった(今でもそう)
  • 海外経験のない研究者になりたくなかった
  • 海外経験を積むチャンスが年齢的に最後だった

というところである。しかしながら、当時の自分が研究者としての就職活動の方法(JREC-INや転職サイトのフル活用)を知っていたならば、もしかしたら海外には行かなかったかもしれない。一方、このようなJREC-INや各種転職サイトの活用を知っていたとしても、納得できる業績がなかったらアカデミックに居続けたかもしれない。今そのような方法を使うことに躊躇がないのは、納得できる業績や海外での研究経験を積んだためとも思える。簡単に言えば「気が済むまでやった」ということだろう。